昭和28年11月編

山形県飽海郡田澤村

小 掠 賣 神 社 の 記

山形県飽海郡地方事務所     (ほぼ原文の通りなっております。)


小掠賣(おしめ)神社

田澤村は飽海郡の東南部に位置し、人口3,909人の、その面積約1229平方キロで大半が山に覆われて農山村の形態をなしているが、その田澤村の麓、楯山と呼ばれる寒村に古史に名高き小掠賣様を祀る杜がある。この神社の祭神は、「於寿女(おしめ)」と「大山祗命(おおやまずみのみこと)」の二柱になっており、六国史に次ぐ日本史上貴重なる文献とされている三代実録には小掠賣神社について斯く記述されている。

「三代実録貞観15年6月26日、己未、飽海郡ノ節婦伴部小掠賣位二階ニ敍シ、戸祖ヲ免シ、門閭ニ旌表セラル。節婦出羽国飽海郡人伴部小掠賣、伉儷亡後、於墓側鴛尼特戒、苦行精進、敍位ニ階免仝戸祖族表門閭」

貞観15年と言えば清和天皇の御代で、紀元1333年であるから今より凡そ1080年前の事であり、今では村内には参考となる資料が発見できぬのみならず、何等の纏った伝説すら語るものはないが、村には唯一楯山部落の後藤勘四郎宅に次に掲げる資料のみが明治になってから綴られた出羽風土記に記述されている小掠賣神社と共に残されて小掠賣様の婦徳を偲ぶ尊い資料となっている。


「小掠賣神社の記」

胎蔵山の麓、升田村(楯山)にあがめ祀る小掠賣の神は本朝烈女伝に伴代の女とあり。嫁し給いて幾ばくとなく夫死したり。小掠賣は親族の再婚し給はん事を謀るに、小掠賣節を守りてあえて聴き給はず遂に髪を裁りて尼となり虜をその墓の側はりにむすびて日夜持戒苦行し給ふ。その事遠く京都に聞こえて貞観15年6月にその貞節を褒賞ありて位二階を賜り、その家の租税を免かしてその操を門閭に旌表はし給う。小掠賣のかかるいみしき御徳のましましければ村の父老相はからいて祠堂を建て木像をおさめてあがめ祭るぬ。

その後世かわりて数百年にくだり村人小掠賣の名のみを知りていかなる神いかなるゆへをも知らず、只歳時の祭おこたらずして積繁存せるまでなりしも時々災いありて村人恐怖せり。

予むかし出羽風土略記をみてこの神のことあるを心に記せり。今春升田に遊びてその神祠に謁し、その事を村長勘四郎に語りてより村人はじめて知りたり。勘四郎の請うのまかせて予これを書記しめたえぬ。今より以来ますます崇敬を加えて永く村長民の福を祈るべしと言う。

文政10年丁亥秋八月書て進ぜしを笥に蔑しおかれし事をことの外に蟲ばみいたみければ書き直してよしと佐藤元韶もて請はるゝにより

明治8年己亥四月七十才 上野逸翁また書きてなをしぬ。


近年郷土史に造詣深い同村の丸山広報主任が以上の資料などを研究してこれを次の如き平易な歌にして村の広報誌に紹介し、改めて村人が小掠賣神社の由来を認識している。

  1. むかしむかしそのむかし 貞女おしめがおりました 頃は貞観地は出羽(いでは) あくみますだの人でした。
  2. 長者伴部は老の身に よつぎのないのをかなしみて 胎蔵薬師にごまをたち きがんをかけておりました。
  3. 生まれし姫は美しく 父母のはぐくみ村人も うらやむ程の幸せの 中に育ってゆきました。
  4. 春は胎蔵の山桜 夏はかじかの音をきき 秋はあらそのしろたえを もみじの間にかいまみて。
  5. 姫は老いたる父母に 何から何とおとぎして 誰いうとなくその名おば 孝女おしめといいました。
  6. 出羽の国司はこれをきき 時の帝におしめおば 人のかがみとねんごろに お知らせ申し上げました。
  7. 年端十三ろうたけき 姫はめされてはるばると 都に上りゆきました 高き位につきました。
  8. 花の都にありながら 高い位にありながら 老いたる親のたよりのみ 朝な夕なに待ちました。
  9. 月星移りいくとせか かりのたよちにちちははの みがまりましてことを聞き 都を去りてふるさとに。
  10. 泣き父母のみたまには いとねんごろにたむけして ありにし昔しのびては 悲たんの涙にくれました。
  11. 水をひいてはたをおこし 蚕かいて機をおり 河を治めて道ひらく 村人達の幸せのため。
  12. 長者の家にありながら かしずく多くがありながら 悲しき事がありました 夫はこの世を去りました。
  13. 胎蔵山麓のおくつきに 庵をたてて落髪し 朝な夕なに香をたき 花を手向けておりました。
  14. 村人たちは尊びて 誰いうとなくその名おば 比丘尼様とはよびました 貞女や孝女といいました。
  15. 帝ははるかにききしめし おしめに位をさずけられ 貢をゆるし人々の かがみになせとありました。
  16. 長き尊き老の身に 父母や夫のとむらいに ありにし哀もしのばれて ねむるか如く去りました。

神社の変遷

神社の創建については詳細は不明であるが、往古は胎蔵山麓の渓谷で御堂の滝とよばれた附近に在ったが火災に遭い、その際御堂は焼失したが御神体は松の木に安置されたとの言伝えがある。その後享保十八年平田元に遷し建てられている。当時の新築札には次の如く記されている。

本躰?舎那 右意趣者信心大橿那息災延命村内

氏子繁昌  肝煎  藤三郎

殊者天下太平国土安隠

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