『Two Lines』 〜Serenade〜
---今なお、ガラスの靴を探し続けているシンデレラたちへ捧げる---
21:30…お互いがふと無口になる時刻。
二人とも夜の闇に突き動かされるかのように、
もう一度だけ胸と胸を合わせる。
『…さあ、家まで送るよ…』 『そうね…10時までには戻らないと…』
会う度に繰り返されて来た、同じ会話。
そしてそんな台詞を吐かなくてはならない自分自身がとても悲しい。
ドアを閉め、カギをかけ、今夜二人がそこで過ごしたつかの間の時間を封印する。
どこへも逃げて行けないように、そう、誰の目にも止まらないように。
私の家が見えて来ないうちに、彼は静かにクルマを停めた。
青くて若い一途な恋人たちみたいな激しさで、
しばし、お互いの唇の記憶を五感に刻み込もうとする。
少しザラついた彼の肌の感触が日常の忙しさを物語っているようで、
私は無性に自分の罪深さを感じずにはいられなかった。
『ありがとう…』 やっとの思いでそれだけを言いながら、
彼の口元の端に小さくついてしまったワインカラーの色素を指でそっと拭う。
そしてなるべく彼の瞳をのぞかないようにして、クルマのドアを開けた。
…助手席から降りた後は決して後ろを振り向かないことに決めている。
こちらの姿が完全に見えなくなるまでクルマを発進させることのない彼の元に、
再び走り出さないようにするためだ。
自分が暮らす家までたどり着くには、あと5分程かかるだろうか。
その足取りはどうしても重いけれど、心の切り替えと、
妻として母としての顔を取り戻すには絶対必要な時間…。
そっと玄関に入る。 …我家の匂いがする。
住み慣れた家の匂いなのに、その時の私にとってはもっとも認めたくないもののひとつだ。
誰にともなく小声でただいまを言い、ダイニングテーブルの椅子にバッグを載せた。
夫は私の帰宅に気付かないのか、今夜も相変わらずパソコンに向かっている。
子供は…静かだ。きっと、子供部屋でもう寝てしまったのだろう。
テーブルの上には、夕食に用意して行ったシチューの鍋と汚れた食器類が
そのまま置いてあった。何かにぶつかったのか、
今朝、生けたばかりの深紅のバラと銀色の一輪挿しが倒れている。
テーブルクロスににじんだ水の輪郭が、少しずつぼやけて視界に入ってくるのが分かった。
…ここで泣いてしまったら、多分、どんな言い訳も出てこないだろう。
こみ上げてくる嗚咽をこらえながらシンクの前に立ち、
先ほどの食器類をゴシゴシと洗い始めた。
彼に会いたい…。ずっと一緒にいたい…。
ただ慌ただしく過ぎていくいつも通りの朝を迎えた。
夫と子供をそれぞれ送り出した後のわずかな休憩の時間に、
電話のベルが突然鳴り出す。
『はい。○○でございます…』 『ああ…、俺だけど…』
電話の主は、12時間前に別れた彼だった。
『どうしたの??いつもならまだ寝ている時間でしょ?』
思わぬタイミングで彼の声を聞けた喜びよりも、意外性の方が大きかったのだ。
『…あんまり眠れなかったんだ。…キミの夢を見たんだよ』
『あら、そうなの?実物よりも美人にしてくれた??』
『いや…。夢の中のキミは…ご主人と一緒にいたよ…ご主人の顔は分からなかったけど』
『………』私には返す言葉が見つからなかった。
『その夢を見た後は、もう眠れなかったんだ…何ていうか…苦しくてね』
『…そんな…お願いよ。いじめないで』
『ごめん…でも、愛してるよ』 少し掠れた声で彼が言った。
身体の中に電流が走るような感覚を覚えた…彼の声とその言葉に、
自分の中の「女」という全ての部分が呼応していくのが分かる。
その時、我家のリビングの壁に掛けてある鳩時計がポッポ〜♪と時を告げた。
聞き慣れたはずの音なのに、私はその音にビクッと怯えた。
こちら側の世界へ早く戻るようにと背中を押された気がして、
電話の向こうの彼にさよならを言う。
受話器を戻し、冷めたコーヒーを喉に流し込む。
彼に会いたい…。ずっと一緒にいたい…。
離れている時間を乗り切る方法はただひとつだけしかない。
二人とも、目の前にある現実をとにかく片付けていくだけ。
彼は仕事を、私は夫や子供の世話を。
会いたい衝動にかられたところで、すぐさま会えるという状況ではないことは
出会いの瞬間からとうに分かりきっていたのだ。
それも大体1ヶ月くらいのインターバルを置いて、
夕方からのほんのひとときしか一緒にいることはできない。
そんなわずかな時間のために、彼は最大限の努力をしてスケジュールを調整してくれる。
私もまた、夜間、家をあけるための適当な口実をあれこれ考えなくてはならなかった。
夫と子供についた嘘はもうどれくらいの大きさに膨れ上がっているだろう?
なのに、ついた嘘の大きさと比例するかのように彼への想いも深まっていく。
いつの日か、私は想像できないほどの罰を受けることになるだろう。
それでも彼への思慕はとめられない。
<彼のモノローグ>
彼女と会っている時間は文句なしに楽しい。
やることなすこと、ひとつひとつの行為が全て新鮮で、それは素直に僕の心を打つ。
その代わり、彼女の髪の毛の1本でさえも自分だけのものではないんだ…という事実が、
この身のうちに潜んでいた激しさに火をつける。
別れ際、クルマのミラー越しに小さくなる背中をいつもどんな思いで見送っているか、
その先、彼女がどこに帰っていくのかを考えるとどれほどつらいか…。
そして誰の隣で朝を迎えるのかと思うと、いっそどこかへ連れ去ってしまいたくなる。
僕以外のすべての男の前から隠してしまいたくなる。
この狂おしい、痛みに似た感情は彼女にだけは味わわせたくない。
傷つくのは自分1人だけで十分だ…。
けれど果たして、心にどれだけの傷を受けたら報われるというんだろう?
…彼女もまた、
出会いがなければ知ることのなかった深い悲しみを胸に抱く日々が続いている。
僕の知らない所でじっと耐えている姿。それを思うと一層せつない。
『俺と知り合わない方が良かった?』 先日、僕は彼女にそう尋ねてみた。
『あなたと出会って…初めて気付いたことがたくさんあるの。
つらいとか悲しいとか…そんなのを越える気持ちだって、私に生きている実感をくれてるわ』
今の僕にとって彼女の言葉は救いだった。
どちらか片一方にでも後悔の気持ちがあったとしたら、
出会いの日から今日まで二人が過ごした時間を否定することになる。
そうだ。
あの出会いの時、お互いがつかの間の幻だとあきらめてしまっていたなら…
最初の一歩を踏めずにいたなら、
確実に強くなりつつある絆で結ばれることも決してなかったのだから。
『私はそのうち、とてつもない罰を受けることになるわね…』
彼女は時折そんな言葉をつぶやく。
…例えどんなに重い罰が課せられたとしても、それは僕が代わりに受けよう。
何が起きても君のことだけは守り抜いてみせるから。
この世のすべてを賭けたい愛が、今、僕の胸の中に存在している。
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私たちに足りないものは勇気だと思う。
僕たちに足りないものはある意味での残酷さだと思う。
僕は彼女を選ぶことによって、 私は彼を選ぶことによって、
それが周囲にどれだけの衝撃や影響を与えるかを考えると、
どんな形の結論も出せないでいる。
いつまでもどこまでも、決して1本になることはない平行した線のように、
二人の距離はずっと等間隔のままだ。
彼に会いたい…。ずっと一緒にいたい…。
彼女に会いたい…。ずっと一緒にいたい…。
2本並んだ平行線は、お互いの名を呼び合いながら、いつしか、
繊細でせつないメロディを奏でる時がくるだろう。
あふれるほどの想いをこめた美しいセレナーデを…。
〜The
End〜
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