民芸運動と雪調との歴史 年表

○昭和12年
雪調所長、山口弘道は雪国の副業等に係る農業経営対策として、日本民藝館長の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎らへ「地方工芸品の発展策」を依頼。9月、柳は最上郡内で民芸品の実地調査を行う。また、10月には河井や染色家の芹澤_介も加わり、郡内の調査を行う。 
 
○昭和13年 2月
雪調を中心に『民芸の会』が組織され、2月第一回の会合が東京学士会館で行われる。出席者は柳、河井、芹澤の外、浜田庄司、柳悦孝らの民芸運動家十名と芸術映画社の大村英之助、建築学の今和次郎らも加わり総勢十六名であった。

○同年 5月
雪調において『最上郡民芸品展覧会』が開催。2日間で一千人の来館者あり。この中の特選・入選作を日本民藝館に送る。

○同年 7月
同展の批評のため、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司が新庄を訪れる。柳は講演において『最上郡はこうした(民芸運動の)機運の先駆をなして戴きたい。作品を拝見するとその資格は十分備わっている』と述べる。

○昭和14年 2月
庄内の藤島において『庄内民芸品展覧会』が開催される(主催 庄内連合青年団)。出品数約二千。会期二日間で八千人ほどが訪れる。

○同年 5月
東京・日本民藝館で『東北民藝展』が開催される。主催は雪調の外郭団体である『雪國協会』。

○昭和15年 2月
雪國協会の主催で『東北地方民芸品展覧会』が東北各県で開催される。柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らが審査員となる。

○同年 6月
東京・三越百貨店で『東北六県民芸品展』を開催。6日間で六千点以上の販売実績をあげる。

○同年 6月
商工省は外貨獲得、輸出品開発の目的で、外国のデザイナー招聘を計画。柳宗理、坂倉準三を通じフランスのペリアンに打診する。ペリアンはナチス=ドイツによるパリ陥落直前に、マルセイユを発つ。彼女は8月21日神戸港に着く。

○同年 9月
日本民藝館で、雪国協会が主催し、『地方工芸振興機関の結成』を目的とした協議会を開催。農林省、商工省貿易局、鉄道省観光局、外務省、東北六県副業主任官、たくみ工芸店、東北振興株式会社など民芸に関係する様々な分野から46名が集まる。また、同時期に日本民藝館で開催された「東北の民藝展」をペリアンが視察する。月刊『民藝』によれば、四〜五時間熱心に見ていったと記述されている。

○同年 10月
ペリアンは柳宗理・通訳の三神とともに新庄の積雪地方農村経済調査所(雪調)を訪れる。雪調所長の山口より、ペリアンは雪国農家の副業対策として、民芸品開発への協力を依頼される。彼女はその真意を汲み取り、地元の素材と農家の技術を生かした敷物や椅子、及びそのカバーを製作することを提案。プロトタイプとして、寝椅子とテーブルセットを地元の農家に製作させた。彼女は形と寸法・用途を指示しただけで、製作は地元の農家の技術に委ねた。

○昭和16年 4月
東北民芸品製作伝習会・展覧会。4月25日〜5月1日にかけて、新庄の雪調で開催される。講師はペリアン、柳宗悦、河井、浜田、芹沢である。なお、この時点でペリアンは商工省の委嘱を解かれていたため、肩書きは「室内装飾家、元商工省嘱託」となっている。

○昭和17年
戦局が激しくなり、また、農林省経済更生部の機構改革とともに、民芸運動を主導した雪調の外郭団体「雪國協会」が解散。また、物資統制により、資材の確保が困難ともなり、民芸開発は自然消滅の憂き目を見る。

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