松島



♪♪松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの~(ハ コリャコリャ)寺もないとエ~アレワエーエ エトソーリャ大漁だエー
前は海 サーヨー 後は山で~(ハ コリャコリャ)小松原とエ~アレハエーエ エトソーリャ大漁だエー♪♪

 

♪♪石の巻 其の名も高い 日和山トエ~西東 松島 遠島 目の下に
富山は 高さも高い 名所山 見渡せば 八百八島 目の下に
塩釜様の 御門の前 八重桜 咲き乱れ 浮名たつみ 西の町
汐汲みが 織り来る波に 桶取られ 桶返せ 戻せや沖の 白波よ♪♪



松島町は古来から風光明媚の観光地として知られ、260を数える大小様々な島は江戸時代の儒学者が林春斎が「日本国事跡考」
の中で日本三処奇観と称した事から宮島(広島県)、天橋立(京都府)と並び日本三景の一つとされます。

 

松島の中で特に景観のよい展望地は「麗観:富山」、「壮観大高森」、「幽観:扇谷」、「偉観:多聞山」が挙げられ「松島四大観」と
称されています。文人墨客も松島の奇観を求めて多数訪れていて、源融、藤原実方、西行法師などが和歌や俳諧を詠み、
特に松尾芭蕉が奥の細道行脚の際、言葉を失い俳句を読めなかった逸話が残っています。



又、文化面でも早くから開き、坂上田村麻呂が創建したという五大堂(国重要文化財)を始め、伊達文化の結集とも言える
瑞巌寺(国宝:本堂、庫裏-国重要文化財:御成門、太鼓塀、中門-宮城県重要文化財:総門)や圓通院三慧殿(国重要文化財)、
陽徳院寶華殿宮城県重要文化財)、三聖堂(松島町指定文化財)、水主衆民家(松島町指定文化財)などの文化財がひしめいています。



近世に入ると瑞巌寺が伊達家菩提寺と言うことあり、一族は度々松島遊覧を行っていて、海岸沿いには豊臣秀吉の
伏見城から拝領された観瀾亭(宮城県重要文化財)を移築して松島を堪能したそうです。

解凍ルパン四爺佐渡金山参上

  

 今回の計画を着実に成功させるため、綿密な計画を立て実行する事にしました。先ず、佐渡に渡る手段として、かみさんと
 行動を別にして、かみさんはフェリーで、四爺はたらい船で渡る事にしました。

  

 たらい船は思った程進まず、体力だけが消耗し、入り江に着いたのは4回目の日の出を過ぎた頃でした。それにしても
 日本海から上る朝日は感動します。おっと!いけねえ!仕事。仕事!

  

 ようやく上陸し、かみさんと合流して一安心(^-^) でも、事前に目立たない服装を準備するように指示していたのに
 かみさん、四爺に赤い服を用意していました。「あのな~~~」 しかし かみさん全く動じず「これしか無いのよ!」

  

 先ずは、普通の観光客を装って現場に侵入、十分な下見のあとに、かみさんを監視カメラの前に立たせ、いよいよ仕事
 に取りかかりましたが、たらい船の櫓こぎで腕が動かず、物を持ち上げる事が出来ませんでした。大失敗です。

   

 かみさん曰く、「私今回でこの仕事手を洗うは」 四爺「あのな~手は自分で洗えよ~魚に洗ってもらうんじゃー」
 かみさん「こんな失敗の朱鷺もあるわよ」 四爺「おばんギャグ言ってる場合か(^_^;)」   佐渡の旅より



青森県の旅

  

 ♪♪ごらんあれが竜飛岬北のはずれと 見知らぬ人が指をさす 息でくもる窓のガラス 拭いてみたけど
 はるかに霞見えるだけ さようなら貴方 私は帰ります 風の音が胸をゆする 泣けとばかりに あぁ津軽海峡冬景色♪♪

 

  

 本州の最北端マグロで有名な下北半島の先端大間です。

  

 下北半島と言えば、日本三大霊場の恐山です。まさに賽の河原です。



 ちょっと疲れました。温泉で一休み!

  

 明治時代兵隊さんが真冬に雪中行軍訓練中、猛吹雪で遭難し、壊滅的な多くの犠牲者をだした八甲田です。

  

 左上の写真は城ヶ倉大橋で、酸ヶ湯からの道路です。2010年6月、この近辺に家族でタケノコ採りに来ていた人たちが
 吹き上がる硫化水素ガスに巻き込まれ、中学生の女の子が帰らぬ人となってしまいました。右上は奥入瀬渓流です。



写真は浅虫温泉から眺めた夕日です。



弘前城は、青森県弘前市にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し、
また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。




お岩木山のてっぺんを綿みてえな白い雲が<、ポッカリポッカリながれてゆき、桃の花が咲き さくらが咲き
そっから早咲きの、リンゴの花ッコが咲くころは、おらだちのいちばんたのしい季節だなや―



だども じっぱり無情の雨こさふって、白い花びらを散らすころ、おら あのころ東京さで死んだ
お母ちゃんのことを思い出して おら おら……(リンゴ追分)



「日本の水浴場(すいよくじょう)55選」、「日本の夕陽百選」に選ばれている千畳敷海岸は、1792年(寛政4年)の地震により隆起して
出来た岩床の海岸です。その昔、殿様が千畳の畳を敷き酒宴を催したといわれる岩棚が広大に続いています。


海の外
シンガポール・マレーシア



シンガポールは別名「ガーデンシティ」と呼ばれるとおり、緑豊かで色とりどりの花が街中に咲いている清潔で
近代的な国です。約430万の人口のうち4分の3以上が華人で、マレー系やインド系も混じる
複合多民族国家でもあります。こうした民族固有の文化に加え、旧宗主国のイギリス文化も交じり合い、
この国独特の文化を形成しています。日本の淡路島ほどの小さな国ですが、ショッピングやグルメ、
観光スポットがとても充実しているモダンで洒落た国です。 それでは、シンガポールをご案内致します。


 

シンガポールは、14世紀頃にはスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国の勢力下にあり、トゥマシクと言う名の港町でした。
シュリヴィジャヤ王国が凋落した後には、ジャワのマジャパヒト王国の影響下に置かれ、15世紀にシンガプーラ(ライオンの村)
という現在の名前の基となった町名に改められました。



16世紀には、マレー半島最南端のジョホールのスルタンが支配下に
治めていましたが、交通の要衝としての港に目をつけたイギリスのトーマス・ラッフルズが、19世紀始めに本格的な港を建設しました。


 

そのすぐ後には周辺のマラッカやペナンと共に植民地としてイギリスの支配下になり、それ以後、東南アジアの貿易の
要衝港として、またイギリスの東南アジアにおける植民地支配の拠点としても大発展してきたのです。



1941年、太平洋戦争が始まると、シンガポールの地理的要因から東南アジア侵攻拠点として位置づけた日本軍は、イギリス軍を破り
シンガポールを軍政下におきます。



そのときから戦争が終わるまでは、シンガポールは「昭南島」と名付けられ、「昭南特別市」
という行政区域となって日本軍人が初代市長になったのです。


 

1945年に戦争が終わり、日本の敗戦でイギリスの支配下に戻りますが、マラヤ連邦が独立した後に、1963年に
マレーシアの一地域として編入されました。



ところが、当時のマレーシアはマレー人優遇政策であったため、住民の大半が華人のシンガポールではその政策は受け入れがたく、
1965年に連邦から追い出されるようにして分離独立を果たしたのです。



初代首相に就任したリー・クアンユーは、独裁的な体制で通商都市国家の建設を目指し、国際的なハブ空港の建設、
関税廃止、などで通商体制を飛躍的に発展させ、続いて教育レベルの向上や、マナーやモラルの強制的な政策を敷いて、
国際的にも先端的なクリーン国家が誕生したのです。







海の外香港

香港は、その正式名称を香港特別行政区と呼び、中華人民共和国の特別行政区の一つとなります。



香港は、阿片戦争後の南京条約によって1842年に清からイギリスに香港島が割譲され、1860年には北京条約により
九龍半島が割譲、1898年には新九龍地区や新界地域の99年租借がされ、それ以降1997年の中国への返還時まで
長年に渡りイギリスの植民地でした。

 

古い時代から交通の要所であり、イギリスの植民地時代には物流や金融、貿易の拠点として大きく発展してきました。


 

第2次世界大戦で、香港は一時日本軍に占領統治されていましたが、1945年の終戦後には再びイギリスの統治下となりました。

 

当時、内戦中の中国本土から逃れてきた中国人の大きな労働力を背景に、イギリスのジャーディン・マセソン商会
をはじめとした外国資本や華人系の資本が、上海から香港にその本拠を移し、戦後の香港経済の発展に大きな関わりを持ちました。

 

以降、香港は世界の金融市場の中心地のひとつとして急速に発展し、貿易や商業の面でも世界有数の都市として成長、
同時に世界有数の観光都市として数多くの観光客が世界中から押し寄せる都市となったのです。




その間、中国とイギリスとの何度かの交渉により、中国の要求する「港人治港」の主張が勝り、1997年に
イギリスはついに香港を手放したのでした。





中国は、その交渉過程の中で、香港を特別行政区として向こう50年間は「一国両制」政策を基本に香港では
中国の社会主義政策を行わず、引き続き資本主義体制で行くことを約束し、現在の香港の体制が生まれたのです。



基本的な社会や経済の制度は変わりませんが、公用語はそれまでの英語と広東語に加え、
新たに中国の標準語である普通語が採用され、学校でも授業に加わるようになりました。

 

【最近の香港の話】2011年4月に九龍島に香港最高峰の超高層展望台Sky100がオープン。これにより世界三大夜景の
ビクトリアピークと双璧をなす2大夜景スポットに。また宿泊ホテルによっては客室からも優雅な夜景鑑賞も。
夜景ファンならずとも一度は訪れたい海外都市といえるでしょう。







 

海の外韓国





大韓民国(だいかんみんこく、朝鮮語: 대한민국漢字大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、東アジアにある
朝鮮半島
を主な領土とし、その南半部を主な支配地としている。憲法上は朝鮮半島全土を領土としている。
首都ソウル特別市冷戦下で誕生した分断国家のひとつである。




日本からたった2時間で着くお隣の国「韓国」は、知れば知るほど興味深い国。人々のパワーも、真夜中の市場の熱気も
日本にはないものばかり。そして本場の味、キムチと焼き肉を食べればもうあなたは韓国のとりこ近年日本人を魅了する
エンターテインメントも、ぜひ現地でその熱を体感してみよう。



また、韓国ならではのビューティー体験も、女性の旅には欠かせない。韓国へ行ってピリッと辛口で刺激的な旅を楽しもう!




38度線(38どせん、: 38th parallel north)は、本来は、第二次世界大戦末期に朝鮮半島を横切る北緯38度線に
引かれたアメリカ軍ソ連軍分割占領ラインである。北緯38度線上に定められたことから、こう呼ばれる。



大韓民国
(韓国)では38線38선、三八線)と呼んでいる。
韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独立から
朝鮮戦争勃発までは、それらの国の境界線(国境)となっていた。



朝鮮戦争後の軍事境界線もやはり38度線と呼ばれることがあるが、正確には一致しない。
北緯38度線と軍事境界線の
交差座標:北緯38度0分0秒東経126度47分13.20秒




【韓国料理の話】食を中心にしてきたように考えられることが多いが、朝鮮半島で伝統的に稲作が行われていた地域は
南西部の一部にかぎられており食文化的には小麦蕎麦高粱、又トウガラシ同様近世になって新大陸から導入された
トウモロコシといった畑作で得られる穀物を主食素材としてきた地域も多い。



ユーラシア大陸
東部全域を見渡すと、南方の稲作文化圏と北方の雑穀畑作・牧畜文化圏の境界部・接点に位置すると言える。
又、栽培された野菜及び、ワラビゼンマイキキョウ(トラジ)といった山菜の消費量が世界的に見ても高く、
それらを用いたメニューが多い。



又海に囲まれた地理ゆえ、海藻類や魚介類の消費量も多く、魚介類の生食も行なわれるようになった。
韓国では以前は一般家庭では肉よりも魚や野菜を主とした食卓が普通であった。




周辺の日本や中国の料理と比べ、スープ類(湯:タン、クㇰ)が多く、唐辛子を用いた料理が多い。元々中南米原産の唐辛子だが
日本を経由して朝鮮半島に入り、現在の韓国・朝鮮料理に彩りと辛みを添える上で欠かせない食材の一つとなっている。



陰陽五行の思想にのっとり、五味(甘、辛、酸、苦、塩)五色(赤、緑、黄、白、黒)五法(焼く、煮る、蒸す、炒める、生)を
バランスよく献立に取り入れることを良しとする。