伊豆の旅



♪♪さよならも 言えず 泣いている 私の踊子よ ああ 船が出る
天城峠で 会うた日は 絵のように あでやかな 袖が雨に 濡れていた 赤い袖に 白い雨♪♪
♪♪
月のきれいな 伊豆の宿 紅いろの 灯に かざす扇 舞いすがた 細い指の なつかしさ♪♪
♪♪
さよならも 言えず 泣いている 私の踊子よ ああ 船が出る
下田街道 海を見て 目をあげた 前髪の ちいさな櫛も 忘られぬ 伊豆の旅よ さようなら♪♪

 

【伊豆の歴史】嘉永6年(1853年)のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされた。江戸湾海防の実務責任者となった
江川英龍(36代江川太郎左衛門・坦庵)に対して、幕府は江戸内湾への台場築造と平行して、反射炉の建造を許可する



ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていた英龍であったが、蘭書の記述のみを頼りに大規模な反射炉を建造することは
非常に困難が伴った。建設予定地は下田港に近い加茂郡本郷村(現下田市高馬)とされ、その年の12月には
基礎工事が始められた。しかし、翌、安政元年3月末、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が、反射炉建設地内に進入するという
事件がおこり、急遽、反射炉建設地を韮山代官所に近い田方郡中村(現伊豆の国市中)に移転することになった。

 

反射炉は、蘭書に基づいた連双式(溶解炉を二つ備える)を2基、直角に配置した形となっていた。つまり、四つの溶解炉を同時に
稼動させることが可能になった。しかし安政2年(1855年)正月、江川英龍は反射炉の竣工を見ることなく病死してしまい、
後を継いだ江川英敏は、蘭学の導入に積極的で、反射炉の建造も行っていた佐賀藩に応援を求め、技師の派遣を要請した。



その結果、安政4年(1857)11月、反射炉は着工から3年半の歳月をかけて、ようやく完成した。完成した反射炉では、
元治元年(1864年)に使用が中止されるまでに、数多くの鉄製砲が鋳造されました。これらの大砲は品川台場に28門配備された。

 

♪♪隠しきれない 移り香が いつしかあなたに しみついた 誰かに盗られる くらいなら あなたを殺して いいですか
寝乱れて 隠れ宿 九十九折り 浄蓮の滝 舞い上がり 揺れおちる 肩のむこうに あなた…… 山が燃える
何があっても もういいの くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え♪♪


 

【天城の歴史】天城山隧道は、伊豆半島ほぼ中央部にある天城峠付近の標高約710m地点に穿たれた石造隧道である。
三島と下田を結び伊豆半島を縦断する下田街道の改良工事の一環として、明治33年(1900年)に起工,
同37年に竣工した。全長約444.5m、幅員約4.1mの規模で,隧道両端に石造坑門を構える。



川端康成の小説『伊豆の踊り子』や井上靖の「しろばんば」、松本清張の小説『天城越え』など数多くの小説の舞台として
使われている。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最大長を有する
土木構造物である。天城トンネルは1998年、国の登録有形文化財に登録され、2001年には道路トンネルとしては初めて
国の重要文化財に指定された。日本の道100選にも選ばれている。


 

堂ヶ島の中で代表的な島がすぐ沖合に浮かんでいる三四郎島。実際には4つの島で構成されていて、大きく潮が引く時は、
浅い海底が道のように現れて陸続きになることがあるとのこと。



堂ヶ島で自然が作り出したもう一つの絶景が天窓洞(てんそうどう)と呼ばれる洞窟です。堂ヶ島の陸側には波による浸食で、
まるでトンネルでも掘ったかのようにたくさんの洞窟が作られています。中でも天窓洞は、その洞窟の天井が開いていることが特徴。
遊覧船が一隻進入できる広さを持っているため、堂ヶ島をめぐる遊覧船は、海からこの天窓洞の中に入ってくれます。陸から
見ていると天窓のようにあいた空間にひょっこりと遊覧船が顔を出すという他では見られない情景を楽しむことができます。



 世界で始めての海に浮かんだ水族館、アクアドームペリー号は、総排水量1,300トン25m×21mの長円形で水槽の容積は600トン。



                         自然の入り江を利用した水族館。館内ではイルカやアシカのショーを始め、海の仲間たちの楽しいショーがいっぱいです。
                          他にもイルカと触れ合える3種類のドルフィンコンタクトも毎日開催。



東京散歩



♪♪どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ 上野は俺らの心の駅だ 
  くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった♪♪

 

浅草寺歴史仲見世の始まりから現在まで仲見世の生いたち仲見世は日本で最も古い商店街の一つです。
徳川家康が江戸幕府を開いてから、江戸の人口が増え、浅草寺への参拝客も一層賑わいましたが、それにつれ、
浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられました。



これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688? 1735)の頃といわれます。江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店
(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、
次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していきました。



俗謡。曲名は「お江戸日本橋七つ立ち」という東海道五十三次を歌った歌詞の歌い出しからとられた。1872年(明治5)ごろ
流行したもので、全18節、品川、川崎、箱根など終点までの風俗を詠み込んでいる。オペラ『蝶々(ちょうちょう)夫人』にも取り入れられ、



世界的に知られているメロディの原調は、江戸中期ごろ甲斐(かい)国(山梨県)の富士川沿岸で歌われていた盆踊り唄(うた)。
それが箱根周辺の『はねだ節』となり、さらに「お前待ち待ち蚊帳(かや)の外、蚊に食われ、七つの鐘が鳴るまでも、
コチャかまやせぬかませやぬ、コチャエ、コチャエ」の『コチャエ節』となり、その替え歌として全国的に流行しました。




♪♪心の底まで しびれるような 吐息が切ない ささやきだから 泪が思わず わいてきて
 泣きたくなるのさ この俺も 東京で一つ 銀座で一つ若い二人が 始めて逢った
   ほんとの恋の 物語♪♪

 

♪♪誰にも内緒で しまっておいた 大事な女の 真心だけど 貴男のためなら 何もかも くれると云う娘の いじらしさ

東京で一つ 銀座で一つ 若い二人の 命をかけた ほんとの恋の物語♪♪



靖国神社は、日本の軍人、軍属等を主な祭神とする神社である。明治2年(1869年)に東京招魂社として創建され、
1879年(明治12年)に靖國神社と改称された。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が所管し、後に内務省が人事を所管し、



陸軍
陸軍省)・海軍海軍省)が祭事を統括した。1946年(昭和21年)に国の管理を離れ、東京都知事認証の
単立神社
単立宗教法人)となった。単立神社であるため、神社本庁との包括関係には属していない。




徳川幕府の居城(江戸城)であったものが,明治元年に皇居となり,明治21年以来,宮城と称されていましたが,
昭和23年,宮城の名称が廃止されて,皇居と呼ばれるようになりました。


皇居内には,天皇皇后両陛下のお住居である御所をはじめ,諸行事を行う宮殿,宮内庁関係の庁舎,
紅葉山御養蚕所などの建物があり,その一角に桃華楽堂などのある皇居東御苑があります。




東京タワーは東京都港区芝公園4丁目にある東京地区の集約電波塔です。1958年(昭和33年)10月14日竣工
同年12月23日完工式が開かれた。東京のシンボル・観光名所として知られてます。正式名称は、建築主に因み日本電波塔です。

 

高さは333mと広報されており、総工費30億円、一年半と延べ219335人の人員を要し完成しました。地上125mと223mに
展望台を有したトラス構造の電波塔です。



「東京スカイツリーの最高高さについては、プロジェクト当初から「約610m」としておりましたが、当初から自立式電波塔
世界一を検討しており、世界一を目指した範囲を想定して構造等の対応を行なってまいりました。

 

世界各地で高層建築物が計画、建設されているなかで、自立式電波塔として高さ世界一を目指し検討を重ねた結果、
このたび634mに決定しました。 東京スカイツリーは五重塔の心柱制振など古来の技を日本の最新技術で再現しております。

 

東京スカイツリーが自立式電波塔として世界一となり注目度が高まることが、日本の文化や技術を世界に知っていただけるまたとない
機会となると考えております。」そんなツリーを見てきました。




ここまで来たら登らないといけませんね~(^O^)

 

先ずは350mからの眺め!目がまりそうです。



やはり、一番高い天望回廊に行ってみるか!

 

それにしてもこの人の多さ!タワー潰れないのかな~先ずはチケット買って



450mから見た浅草寺、東京の全てが見渡せます。

 

 



東京臨海新交通臨海線は、東京都港区新橋駅から江東区豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する
新交通システム
(特殊街路)である。




開通当初から愛称のゆりかもめもしくは新交通ゆりかもめで呼ばれることが多く、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。
なお、路線名は「東京臨海新交通臨海線」であり、「『東京臨海新交通』の『臨海線』」と分離すべきものではないのだが、
これは運営会社の株式会社ゆりかもめが当初「東京臨海新交通株式会社」という社名を用いていたためである。



都市計画
事業としての名称は、東京都市計画道路特殊街路新交通専用道第1号臨海線1 - 3
及び東京都市計画都市高速鉄道東京臨海新交通臨海線である。




昔上野今羽田!東京の玄関ですね。
東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英称Tokyo International Airport)とは、
東京都
大田区羽田空港にある空港法4条で法定されている空港である。



通称は羽田空港(はねだくうこう、英称:Haneda Airport)であり、正式名称である「東京国際空港」よりもこの通称の方が広く
定着しており、飛行機の搭乗案内では単に「羽田行」などと表示されることがある。また当空港敷地一帯の町名にもなっている。



この「羽田」は当空港周辺の旧町名に由来する。東京のもう一つの玄関口である千葉県にある成田国際空港との区別を明確にするために
「東京(羽田)」と表記されることもある。また、搭乗券の行先欄には「東京」と表記される。
2010年10月21日に
国際線ターミナルが開業し、10月31日からは、これまで国際線定期チャーター便として運航されている便は定期便に格上げされた。





 

東京駅は東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計
9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する。赤レンガ造りの
丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計したもので、1914年に竣工、2003年に国の重要文化財に指定されている。
関東の駅百選」認定駅でもある。




                                        

<a href="http://jpop.yinyueabc.com/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E3%81%95%E3%82%86%E3%82%8A/%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E8%B6%8A%E3%81%88/">天城越え 歌詞<a>
<a href="http://www.yinyueabc.com">音樂 ABC<a>
嘘でも抱かれりゃ あたたかい
わさび沢 隠れ径
小夜時雨 寒天橋
恨んでも 恨んでも からだうらはら
あなた…… 山が燃える
戻れなくても もういいの
くらくら燃える 地をはって
あなたと越えたい 天城越え

走り水 迷い恋
風の群れ 天城隧道
恨んでも 恨んでも からだうらはら
あなた…… 山が燃える
戻れなくても もういいの
くらくら燃える 地をはって
あなたと越えたい 天城越え
















  出羽三山湯殿山

 湯殿山は修験の聖地であり、出羽三山の奥宮とされてきました。開祖は三山共通で蜂子皇子(崇峻天皇の第三皇子)
 別名を能除仙であると伝わっています。「語る無かれ」「聞くなかれ」と戒められた聖地です。本宮は梵字川の流れの
 ほとりにあり、幽玄の仙境に鎮座しています。参拝に際しては、履き物を脱ぎお祓いを受けお参り致します。

 
 

 湯殿山は、標高1500m、月山南西山腹に連なるなだらかな稜線の山です。湯殿山神社の本宮は写真
 撮影禁止になっています。温泉の湧き出る巨岩が御神体で多くの参拝客で賑わっています。参籠所から神社までは
 専用のバスの移動となります。元禄2年6月7日の早朝、月山の避難小屋より湯殿山に下りたとされている
 松尾芭蕉は「語られぬ 湯殿に濡らす 袂かな」と名句を詠まれたと言われています。

 


 山形県鶴岡市田麦俣字六十里山3  湯殿山神社℡0235-54-6133

 出羽三山羽黒山

  

江戸時代、月山・湯殿山は女人禁制でありました。しかし羽黒山は女人参拝が許され、太々神楽講中も各地に結ばれ、
 羽黒巫女が奉納しました。今は大和舞いが奈良春日大社から伝習されています。その神殿は羽黒山頂にあり、
 今は車で行くことは可能ですが、やはり参拝は石段を登って!
 随神門から少し階段を下って国宝の五重塔を過ぎれば、その先2446段の石段が待っています。静まりかえる
 巨大な杉並木の中に建つ五重塔はその歴史の風格に思わず見入ってしまいます。

 
 

 出羽三山①羽黒山大権現(出羽神:いではのかみ)②月山大権現(月詠神:つきよみのかみ)③湯殿山大権現
 (大山祇神:おおや まずみのかみ)出羽三山の開山は、推古元年(593年)推古天皇の子、蜂子皇子が三本足の
 霊鳥に導かれ羽黒山に登拝し、山頂に祠を祭ったのが始まりと伝えられています。その後皇子は、月山神社・
 湯殿山神社を創建し、両山の神を羽黒山に勧請して羽黒三所大権現としました。
 

 


出羽三山月山

 「万葉集」に、月山神社の祭神である「月読命」を詠んだ歌があります。月山は死と再生の聖なる山として
 崇められています。臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれるほど伸びやかな稜線を持つ月山大日如来を本地仏とする
 奥の院湯殿山と、峰子皇子(はちこのみこ)を開祖とする羽黒山と併せ出羽三山と称される奥州随一の
 山岳信仰の地でもあります。

 

 月山(がっさん)は、山形県のほぼ中央に位置し、出羽山地の南部の山で標高1984mで環状火山です。内陸地方と
 庄内地方の  境にあり全県を見渡すことができ日本百名山の一つに数えられています。

 


   出羽富士 鳥海山

 

 鳥海山は、山形県と秋田県の県境にあって、日本海に面し、標高2236mその名を出羽富士とも呼ばれ、山麓周辺の人々の
 守り神として、古くから崇められてきました。


  

 気象変化が厳しく、それだけ四季の彩りも鮮やかで、その自然の変化には目を見張るものがあります。降り積もった雪が豊富な
 沢水・湧き水となり幾条もの谷を刻んで広い山裾に流れ、御水は水田を潤し稲を育ててきました。


 

 人々の生活の背景には、いつも鳥海山があり、信仰の山としての存在も大きく、その姿の美しさと共に心の支えとなっています。

  

 その鳥海山に2010年10月3日かみさんと登ってみました。40年ほど前に一度一泊二日で山頂まで登りました。コースは
 湯ノ台口から登って吹浦口に降りました。二日がかりで、若い時なのに、そうとう辛い出来事だった記憶があります。


  

 今回は、日帰りですから、山頂は目指しません。山頂を極める事だけが登山ではないですよね。コースは40年前と逆コースです。
 吹浦口→鳥海湖→千畳ヶ原→河原宿→滝の小屋→湯ノ台口、おおむね歩くこと6時間、標高は最高で8合目くらいです。


 

  

 それにしても、やっぱりきつい山です。撮った写真は平坦な所が多いですが、実際は岩がゴロンゴロンの所を登る行程が多い
 です。そんな、きつい場所では、カメラを操作する気力も・体力も無くなっているのが正解です。


 

  

 今回の登山に際して、一番心配したのがお天気です。3日に登るのは決めていましたが、9月30日から10月2日までは、申し分
 の無い秋晴れで、週間予報でも3日から雨の予報が出ていました。3日の朝、前日と違ってやはり雲の多い朝となりました。


  

 頼りになるのは、山ちゃんは「晴れ男」と云うことだけです。過去にも色々な場面で「晴れ男」に救われてきました。登山口までの
 バスのウインドガラスに、事もあろうにぽつぽつと雨粒が(-_-;)所が、いざ登り始めると、時折青空が見え出しました。視界もよく
 下界も見渡す事が出来、新潟県の粟島もくっきり見えました。そして、山から帰った夜から雨となりました。