車道半世紀







 昔、戦国時代には「人生50年」などと云われていたそうですが、食糧事情の改善や医学の進歩で平均寿命も伸びました。
 山ちゃんは、こんな時代に生きられた事を幸せだと感じています。そして、自動車整備の道に進んだ事も間違いは無かった
 と思っています。少し老いを感じる昨今ですが、生涯現役を目指して精進してまいります。

 

 山ちゃんが車と出会うきっかけは、高校生の時冬山スキーで横転、大怪我をして中退してしまいました。その治療とリハビリ中
 とある雑誌で東京にある「トヨタ直営自動車整備士養成学校」の生徒募集の公告を見て応募しました。
 

 当時の自動車産業は現在のように車社会が到来するとは思えない時代でした。結構競争が激しかったのですが、まぐれで
 合格し昭和36年卒業することが出来ました。

 

 トヨタの学校でしたから、そこを卒業すれば、全国のトヨタディラーへ書類審査だけで入社できます。
 山ちゃんは地元山形へ戻って就職致しました。 それにしても、左上の車のナンバーお解りになりますか?地域名の無いのは
 東京のナンバー(今で云うと品川ナンバーです)なのです。車がいかに少なかったかお解りでしょう。

 
 

 昭和36年山形トヨペット本社工場(山形市十日町)が最初の勤務地で、その後、成沢に出来た第二工場(現本社)へ
 開店メンバーの一人として勤務しました。当時はご覧のように田んぼの中の工場でした。同38年酒田店へ転勤になりました。

 

現在もそうですが、若いこの時代も仕事が大好きで、常に前向き肯定的に新技術を学び、取得可能なあらゆる資格試験に
 挑戦しました。又寮から夜中寝間着のまま抜けだし工場で仕事をしていた事も度々でした。

  

 偉そうな事ばかり述べてきましたが、山ちゃんの特徴は、仕事ばかりでは有りません。お酒も・アウトドア的な遊びも人一倍
 楽しんできました。「仕事も遊びも全力でやる」これがモットーです。若い頃は、手元にある金目の物は全て質屋に保管してもらい
 安心して遊び廻ったものです。













 


 ある時期、ディラー工場ですと、ある一定の車種しか取り扱いしないため、他の多くの車に出会うため、一般の整備工場へ
 勤務先を換え、大型車や重機などにも挑戦し、関連する色々な資格を取得、工場の発展にも寄与してまいりました。

  

 
以上のような生き方は現在も継続しており、常に新技術に興味を持ち、手に取ってみて・又は先端技術の詰まったHV車を
 マイカーにし、常に前向き肯定的に現役生活を楽しんでいます。勿論!遊びの
方も頑張っています。

  

 
現在の山ちゃんの職場は、年間4000台を超す車検台数と、年間1000台を超そうとしている未使用車販売の環境の中で
 メカニックの一員として活躍致しております。若い社員が検査員の資格を次々取得し、山ちゃんの出番は少なくなっています。

  

 山ちゃんが自動車検査員の資格試験に合格したのは、22才の時で昭和40年の時でした。証書は翌年41年の交付です。
 国の行う検査業務を民間に委託する法律「指定自動車整備事業規則」が発足し間もない頃です。それから数えると
 検査員として平成22年度で45年経ったことになります。

 

 平成23年そんな経過を認めてくれる証書を一枚頂きました。こんな証書です。



平成25年11月1日には国土交通省東北運輸局山形運輸支局から頂きました。