山ちゃんとスパーカー

私が八幡自動車(現在のSPOKE holdings)に入社した当時、初代社長以下6~7名の小さな町工場でした。
1975年頃(約半世紀前なのであいまい)のお話です。ある日、初代社長の知り合いから、東京で登録の
見通しが立たない自動車の、登録依頼がありました。どんな仕事でも断らない会社なので、受注しました。
入庫した自動車はイタリヤ製でドイツでナンバーを取得した後、並行輸入された「ランボルギーニ・カウンタックLP400」
と云う自動車で、今まで目にした事がない正にスーパーカーでした。当時の金額で2000万円位だったと思います。




それから私の悪戦苦闘が始まりました。先ず最初の問題は登録に必要な車に関する書類の不足です。
日本のような車検制度の無い諸外国では、ナンバーを取得するのは簡単で、日本で例えると原付バイクの
ナンバーを取得するように、簡単な書面を最寄りの役所に持って行けばその場で交付されます。従って引き
受けた車両に付いてきた書類も簡単な許可証のコピーみたいなものだけで、おまけにドイツ語で書いてあり、
車両情報は全く解らずの状態でした。ほうぼう手を尽くしましたが、最終的にはドイツ大使館に
お願いして解読して頂きました。




次に肝心の自動車の整備の方ですが、登録するには当時の日本の保安基準に適合するようにしなければなりません。
排出ガス規制が始まりだした頃で、第1段階の対策は、点火時期遅角調整で、次は点火時期制御装置(所謂モジュレーター
の取り付け)の時代でした。こちらはなんとかクリアしました。足回りの整備で最初に直面したのは、ジャッキ・アップです。
この車の車台は、
スペース・フレームであまり太くないパイプを、溶接で組み合わせたもので、国産車のつもりで扱うと、
すぐフレームが曲がってしまいます。一番手を焼いたのは、パーキング・ブレーキの制動力が不足した事です。構造的に駐車
ブレーキのブレーキ・パッドのディスクとの当たり面積が小さく無理な話でした。鉄工所や鍛冶屋などを
駆けずり回り構造の一部を改造してクリアしました。




さて、書類が整い整備も出来れば陸運事務所(現運輸支局)に持ち込み検査です。私の住む庄内地方は、
出張検査場でした。会社から片道約25kmあり、自走で出かけましたが、最高速度が250km/h以上のスーパーカー
を制限速度40km/hの道路を走る訳ですからMTのギヤは1速と2速の入れ替えだけです。燃費も悪い車なので、
燃料ゲージが目に見えて降下するのが解ります。こんな車を持ち込み車検をするのは初めてで、当然待ち受ける
国の検査官も初めて見る車です。様々な指摘があり2~3度持ち込みましたが合格出来ず。検査官から出張車検でなく
山形にある事務所に持ち込むように指示がありました。さすがに山形まで自走は無理なので、簡易の積載車
(現在のような積載車はなく、ロングボデーの平ボデートラックに、長いアルミ製の渡り板を付けたもの)に積み込み、
山形でようやく合格する事が出来ました。




新たに山形の印(⛩マーク)の付いた車台番号と、原動機型式の職権打刻を受け、山形ナンバーの登録を
受ける事が出来ました。最初のLP400はこのように大変苦労いたしましたが、LP500を含む2~3台目はすんなりと
登録出来ました。当時現在のようなデジタルカメラやスマホなどはなく、記録した写真が極端に少ないのが残念です。





2021年会社設立60周年記念行事に当たり、その企画を任されたスタッフが、ある記事を目にしました。そして、
そこに掲載されたカウンタックが約半世紀前に、我が社で登録された車両である事も判明しました。決め手は
職権打刻の⛩マークです。そして半世紀ぶりに里帰りする事になりました。








当日の様子などはNHKで取材に来ていまして、後日放送されました。



ランボルギーニ・カウンタック(Lamborghini Countach )はイタリアの自動車メーカー、ランボルギーニが1974年から
1990年にかけて製造したスーパーカーです。カウンタックは、いわゆるスーパーカーを代表する自動車であり、
特殊なエアインテーク機構や自然吸気(NA)で高出力の大排気量V型12気筒エンジンを搭載する等、デザイン、
メカニズム、シャシー構造等の点において異彩を放ち、1970年代後半から1980年代にかけて日本で巻き起こった
「スーパーカーブーム」の主役となりましたた。



カウンタック初の市販モデルLP400が登場したのは1974年、2番目のプロトティーポ(シャーシ番号#1120001)以来
オーバーヒート対策のためボディに多数のエアインテーク、アウトレットが設けられました。5Lエンジンの開発が
間に合わなかった為、ミウラで実績のある3,929ccエンジンが積まれた。車体構造はLP500プロトティーポの
テストドライブの際に剛性不足と判断されたためと上記スタンツァーニの外注コストに起因する考えから、
セミモノコック構造全鋼製シャーシから丸鋼管を溶接して組み上げたバードケージ(鳥かご)フレームにアルミの
ボディパネルを溶接して付ける仕様に変更され、剛性向上と軽量化を同時に果たしました。なお、実際の車両重量
についてはカタログ記載より約500kg程度重い1.6tであり、エンジン出力についても330馬力程度で、これらの数値は
実際の各種テストデータ、0~400m 13秒台後半、最高速度260km/hなどから考えても辻褄の合う内容です。



ブーム時には「最高速度300km/h」という公称値が話題となり、シザーズドア、リトラクタブル・ヘッドライトと共に
人気の一端を担っていましたが、実際には当時の現行車種LP400の最高速は300km/hまで届いていません。
車名の由来ですが、カウンタック(Countach)とは、イタリア北西部ピエモンテ地方の方言で「驚いた」を表す「Contacc」
(驚異、驚きの感嘆詞)contacc [kʊŋˈtɑtʃ](イタリア語での発音はクンタッチ)の綴りを一部改変したものです。



ランボルギーニは、カウンタックモデルを更に説明するために、英数字指定のシステムを使用し、初期の
カウンタックモデルで共有されるエンジンの向きと配置を指し、イタリア語の「縦方向後部」の略語である「LP」は
ミッドシップ縦置き(Longitudinale Posteriore )、「LP」の後に3桁の数字が続き、公称排気量(cc単位、10分の1
表記)を示します。プロトティーポ及び初期の生産モデルでは、3.9リッターエンジンの場合は「400」、4.8リッター
及び5リッターエンジンの場合は「500」で、ミウラと同様に、高性能バリアントのための文字には「S」(エッセ、スポーツ
sportの略)が追加まし。この命名スキームは、5.2リッターエンジンを搭載した1985年のLP5000 Quattrovalvole
まで続き、1988年の25thアニバーサリーで変更されました。



カウンタックで使用されているランボルギーニV12エンジンは1963年にジオットビッツァリーニによって設計され、
このエンジンは、350GT、400GT、Islero、Espada、Miuraなどのモデルで使用されており、ミウラでは、3,929 ccの
排気量、60ºのシリンダーバンク角度、バンクごとに2つのオーバーヘッドカムシャフト、シリンダーごとに2つのバルブ、
潤滑とディストリビューター点火を備えていました。パオロスタンツァーニのエンジニアリングチームは、ミウラSVの
ように、カウンタックエンジンの出力を最大379 PS以上に増加させたいと考え、3.9リッターバージョンは、実験的な
P400 Jotaで約417〜441 PSの定格になるように調整された。しかし、この仕様のエンジンは製造に費用がかかり、
低RPMパワーが不足し、通常の市街地走行では取り扱いが困難だったため、エンジニアは、レースチューンエンジン
の使いやすさの問題を回避しながら、より多くのパワーを引き出すために、
エンジンの排気量を5リッターに増やすことにしました。




カウンタックLP500S ウルフ・スペシャルは、F1チームオーナーがオーダーしたスペシャルモデルで、1970年代に
巻き起こった、第一次スーパーカーブームを経験した世代にとってはお馴染み過ぎる存在、「ウルフ・カウンタック」こと
ランボルギーニ カウンタック LP500S ウルフ・スペシャルは、かつて松田優作さんが出演した1979年公開の
ハードボイルド映画「蘇える金狼」に登場したことでも有名です。




私がこの自動車を整備し登録した証拠の排出ガス対策済のステッカーが半世紀の時を超えて未だ貼られていました。



ウルフ・スペシャルは全部で5台ほど存在していまた。カナダの石油王であり、F1チームのオーナーとしても知られた
ウォルター・ウルフ氏が 、イタリアのサンタアガタ・ボロネーゼにあるアウトモビリ・ランボルギーニ S.p.Aから購入した
ランボルギーニ カウンタックのスペシャルモデルは全部で5台ほど存在するといわれています。




1台目はルーフにウイングを装着した白いカウンタック LP400、2台目は「蘇える金狼」でスクリーンデビューを果たした
ランボルギーニ カウンタック LP500S ウルフ・スペシャル、3台目はさらなるパワーを求め、排気量5000ccのV型
12気筒エンジンを積んだ青色の個体、4台目は前述の5000ccエンジンが移植された紺色の個体、5台目はランボルギーニ
創立25周年記念モデルのアニバーサリーをベースとした個体だといいます。




現在、このカウンタックの価値はいかほどなのか予想は付きませんが、半世紀前の2000万円を大きく上回る事は
確実と思われます。このイベントでカウンタックに再会し知った事は、私が日本で始めてランボルギーニ
カウンタックを整備し、ナンバーを取得したという事です。