Part 4 みんなに「気づいて」ほしいこと


「お客様の足」は「お客様の身」になって




 公共交通機関は、どんなモノを造るにしても、どんな構想を立てるにしても、一利用者の立場から言わせていただきますと、決して見失って欲しくない視点があります。それは・・・
「お客様の足」は「お客様の身」になって
 ということです。この視点を忘れてしまうと、いくら「これからの街づくりの中でどう位置づけるか・・・」とか、「我が都市の将来の発展のために・・・」などという「言葉」を並べて議論するだけで、「使う」人の身になって考えなければ「商品」としての魅力が感じられないものになるでしょう。
 公共交通機関は、基本的に「乗っていただいてナンボ」の世界です。そうですよねー。だって考えてもみて下さい。「我が都市の発展にどうしても必要だから」と言われてあなたに与えられたモノが、「(クルマから乗り換えても)使いたい」という魅力を持っていなければあなたはどう思いますか?
 「いくら『発展のためだから』と言われたってねー」となるのではないでしょうか? いや、決して安くない私たち市民の「血税」で「使いたくない」と思わせるモノを造ったのだとしたら、「何でこんなモノを造ったんだ!? ふざけるな!!」と怒鳴りたくなるのではないでしょうか?
 近年、仙台市では「東西線」に関する議論が新聞・雑誌などで盛んになっています。議論されている方々は、皆それぞれ「仙台市の今後の発展のため」という強い気持ちでこの議論に当たられているのが、そして誰ひとりとして「今後の仙台なんかどうでもいい」という人はいないというのがよく分かります。
 ただ、そのような議論を端から耳にしていると、一部の議論者の論調に対して疑問を抱かざるを得ないものがあります。その疑問は二つ、それは・・・
      
  1. 計画(議論)する立場の人が「これが利用者にとって最もふさわしい」と思っている「理想像」と、(私たち一般市民のように)実際に利用する立場の人のそれとのギャップがかなり大きい

      

  2. 「脱クルマ中心都市」を目指して計画されているはずの「仙台東西線」なのに、まだクルマを最優先に据えたままの議論が展開されているフシがある
ことがある、ということです。今後の議論の方向を見誤らないようにするためにも、これはお話ししなければならないでしょう。
 まず(1)についてお話ししましょう。

 実際利用する「人」そのものに、「最もラクに(早く快適に)目的地まで移動できる」という、「安全」と同等に重要である「最も求められるサービス」を提供するのに一番合った形だけが「最もふさわしい公共交通機関」、それらに一番沿った形の発展のみが「正しい発展」として迎えられるのです。

 「最もふさわしい公共交通機関」や「正しい発展」というのは、その採用する路線に対する需要、都市(圏)の規模、路線の性格、採算性などにより千差万別でしょう。言い換えれば「適材適所」ということです。
 例えば、東京都電は、かつて巨大な「路面電車網」を誇っていました。ところが、人口が急増して地下鉄が整備されるようになり、それと共にだんだんと姿を消して今では1路線(都電荒川線)だけとなりました。これから、東京都心の場合はこの発展の方向は正しかったのかどうか、それをみてみましょう。
 もし、「乗り降りの便利さの追求」を意識するあまり、地下鉄を造らず全線をLRT化していたとしたらどうなるでしょう。答えは明らかです。需要に応えきれず、駅・電停は乗車待ちの人であふれかえることになっていたでしょう。
 地下鉄だと、建設費が他の手段に比べて非常に高く、乗客に階段の登り降りを強いてしまうのですが、それでも乗車待ちの列の中で長時間待たせることに比べれば、乗客に長時間「歩いていただいて」も、実際の利用者である「人」に対して、最もラクに(早く快適に)目的地まで移動できるという「最も求められるサービス」を提供できるのです。
 また、極めてたくさんの人が利用するため、たとえ建設費が高くついたとしても、比較的安い運賃(営団地下鉄は初乗り160円)でやっていけるのです。  
 クルマで都内を動くとすると、渋滞や駐車場の問題があるので、どのみち地下鉄でうごくのが、乗客に長時間「歩いていただいて」たとしても、地下鉄が最も便利であるのは事実です。
 こう考えていくと、東京の場合は地下鉄を中心に整備してきた、という方向性は、実際の利用者である「」に対して「最も求められるサービス」を提供できているので、現在のところ正しいと言えるでしょう。
 ただここでお分かりいただきたいのは、「地下鉄があったから東京が発展した」のではなく、「東京が発展するのに地下鉄にする合理性・必然性があった」ということです。需要といい、都市の規模や路線の性格といい・・・
 つまり、「○○があったから」というワケではなく、「○○である必然性を持つ条件を全て兼ね備えていたから」、簡単に言えば、「適材適所」に沿っているということです。
 東京の中心部の場合は「地下鉄整備の方向は、現在のところ正しいと言える」で決着しました。では、我らが「杜の都」仙台市の場合はどうなのか、もう一度検討してみましょう。
 現在の地下鉄南北線は、パート2でお話ししたとおり、我が仙台市の発展に決して少なくない貢献をしたのは事実です。しかし、利用者が目標に届かなかったことによる多額の負担が「市民のふところ」に影響しているのも、これまた厳然とした事実でしょう。
 しかも、東京のように乗客に「歩いていただいて」もそれを大きく上回るメリットがあった、とは私には思えません。(駅の中を)長距離歩くぐらいなら、割安感のない運賃を払うくらいならばクルマを使った方が便利だ、と思うことが少なくないからです。
 導入当時は「最もふさわしい」と(私も他の一般市民も行政も)ほとんどの人が考えていたフシがあると思いますが、実際に導入したあとの現状をみると、「南北線」に「地下鉄」を導入したことが最も正しい選択肢つまり「『適材適所』に沿っている」のかどうか、私には言えません。
 南北線は、それでもまだ高度の経済成長が見込めた時代の導入だったから、ここまで発展できたのではないでしょうか?しかも、導入当時はそれがベストと考えられていた、これは仕方なかった面もあると思います。
 しかし、「仙台東西線」に「(リニア)地下鉄」を導入するのは、一利用者から言わせてもらえば、パート2・3で長々とお話ししたとおり、「適材適所」とはとても思えません。
 クルマに対して、これから計画される公共交通機関が競争力を持つかどうか、つまり「適材適所」に沿っているかどうかを判断する方法は簡単です。自分で、胸に手を当てて、自分が実際の利用者だとして、いろいろ想定してみるのです。
 例えば、あなたが(中心部の)商店街の店の主人だとします。もし自分自身が客なら、自分の商店街に来るのに是非(あなたが想像しているその公共交通機関を、クルマと比べても)使いたいと思うかどうか、どうすれば「クルマから乗り換えてでも」使いたいと思うか・・・
 胸に手を当てて考えるのです。『「お客様の足」は「お客様の身」になって』という考え方は基本中の基本、と言えるでしょう。「自分ならば使いたくない」と思う方法ならば、その方法は正しくないということになります。
 あくまで「自分だったら」です。「自分は使いたくない(進んで使う気はない)が他の人(一般市民)が使ってくれるだろう」という、私に言わせれば「よこしまな」考え方はダメでしょう。その「よこしま」さが、利用者と議論者の間にギャップを生む大きな原因だと思うからです。
 しかし、実際の議論をみていると、「本当に利用者の身になって考えて議論しているんか」と思うようなことが見受けられることがあります。確かに、「仙台東西線」を「都市の中でどう位置づけるか」や「基幹交通としてどう生かすか」という議論はもちろん大切です。
 でも、そんな言葉に飾られてしまい、「利用者である『人』にとって本当に便利か」「都市の『器』に見合うものなのか」という、最も本質的な点がかき消されていると受け取れる議論が見られることがあるのは残念です。
 「議論の渦」の中のそこのあなた、あなたの心の中に、「よこしま」な考え方は巣くっていませんか? もしあるとすれば、そんな「よこしま」さがギャップの原因になっているのでは?
 よく手を当てて、考えて・・・ このサイトを書いている私も、読んでいるあなたも、そして、一番そうして欲しい、「よこしま」な考えの井戸の中に落ちてしまっている一部の「議論者」も・・・




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