「人の先に立つ人」はそれらしく!





 
 このサイトの中で、パート1ではクルマに過度に依存している現在の都市交通の矛盾、パート3では都市交通においてLRTが「現在のクルマ社会において」有用であるということをお話ししてきました。これらのことはいずれも、「クルマ社会」である欧米でもすでに常識となって久しくなっています。
 私はしばしば、「クルマ『中心』社会」の矛盾やその対策としてのLRTの有用性について、身の回りの人と話すことがあります。ところが、「欧米ではできてもニッポンではムリ」という声が聞かれることが、相変わらず少なくありません。
 でも、実際に「我が国ではムリ」なのでしょうか? 普通の発想で行けば、「海外でできることは我が国でもできる」と思うのですが・・・ それはこういうことです。
 我が国は、昔からいろいろな科学技術を海外から手に入れて活用しています。交通の分野はもちろん、通信、建築、土木、産業、医学、芸術、はてはファッション、音楽、料理まで・・・
 いろいろな技術・知識を手に入れては身の回りの生活に活かし、私たちの生活は飛躍的に便利そして快適になりました。海外からの技術の導入がなければ、今の我が国はどうなっていたでしょう?
 明治初期の日本には、鎖国の時代が長く続いていたこともあって重工業の発達は見られず、技術も西洋にくらべてはるかに遅れていました。この立ちおくれを取り戻して欧米に追いつくために、当時の政府は富国強兵・殖産興業政策をとりました。政府が資本を出し、外国から技師を招き、進んだ機械を買いいれて工業の整備を図りました。
 「輸入して育てる」という過程を経て「空気のように当たり前」の存在になっているモノは、身の回りを見渡してみると枚挙にいとまがありません。鉄道や通信だってその例です。
 我が国の鉄道は、明治5年(1872年)に新橋〜横浜間が初めて開通し、その後は精力的に整備が進んで鉄道の路線網は全国に延びていきました。
 今の時代の私たちは、鉄道が全国のあちこちで走っているのを当たり前として受け入れています。ところが、鉄道を全国中に延ばす工事をしていた時代は反対の声が挙がっていた地域も少なくなかったと言います。
 こちら宮城県でも、現在の東北本線が建設された当時、養蚕地帯から「蒸気機関車のばい煙で桑園が全滅する」と反対運動が起こったため当初計画を変更した、というようなことまであったそうです。
 通信だって、今は無線・電話をはじめいろいろな技術が空気同然のように当たり前な存在になっています。ところが、最初は、一般の人々には不思議なものと思われた事もあったと言います。
 中には女の人の血が吸い取られるとか、電線を伝って伝染病が広まる、などといううわさが飛び交ったりして、電線の下を通る時は扇子で頭を隠す人もいた、なんて話まであったそうです。
 もちろん、現在の私たちの知識ではこれらの理屈は全然正解でないということは、みなさんお解りと思います。今の世の中でこんな事を真顔で言ったら、「そんなバカな話があるか!」と笑われるのがオチでしょう。
 でも、鉄道にしても通信にしてもはじめは、一般の人にとっては「未知の存在」だったわけです。「未知の存在」だっただけに、それが初めて導入されたときの住民の無理解ぶりや不安と言ったら、決して小さくなかったでしょう。
 LRTの、今現在の我が国での認知度はどうでしょうか?ここまでお読みになった方にはおぼろげながらお解りいただけたかと思います。一部の人にとっては「常識」にもなっています。
 しかし、世の中の大多数に人にとっては、「LRT」というものは未だに「未知の存在」であるのは事実です。「『LRT』ってなんだ?」という人は、まだまだ多いのが現状です。ここまでお読みになったみなさんのほとんどは・・・
 クルマは電車などよりはるかに『場所くい』であり、LRT独自の特長をうまく活用して『場所くい』から『お客様』を取り返すことで、道路スペースを有効に使える
 ということをもう「知っている」と思います。「人がクルマに分乗すれば場所くい、LRTに同乗すればコンパクトになってその分道路が空く」ということは、考えてみれば当たり前のことです。
 この「当たり前のこと」は、ヨーロッパでも、米国でも成り立っているわけです。もちろん、我が国ニッポンでも同じように成り立つということは、みなさんお解りでしょう。ものの法則性というものは世界共通なのです。
 (写真左)ウィーン(オーストリア)の市街電車。(写真右)広島電鉄市内線。

 いずれも、狭い道を電車がジャマされることなく走っている。ここで、これら電車の数十〜数百人の乗客を、クルマに分乗させた上で同じ道路で運ぶと仮定する。たとえ軌道をクルマに解放したとしても結果はどうなるか?

 ここまでお読みになったみなさんは、これら小路が身動きのとれなくなったクルマであふれる風景が目に浮かぶことと思う。ヨーロッパだろうと日本だろうと、「場所くい」の弊害は共通である。

 つまり、公共交通機関を便利な体制に整備して多数の人を引きつけておくことで都市空間が有効に使える、ということも世界共通である。考えてみれば当たり前のことである。

 ものの法則性に則れば、我が国でも『公共交通機関をうまく整備すれば、ヨーロッパのように都市空間を有効に使える』ということが成り立つ、と考えるのは自然な発想だと思うのだが・・・

(写真左)佐藤 茂 氏(仙台高速市電研究会)の御厚意により掲載
(写真右)広島市内で撮影
 世の中では、LRTの話を聞くとすぐに「自動車のジャマになる」とか「クルマの渋滞悪化が不安」という人がいますが、そう言う人はまず、上の「当たり前のこと」を理解していないと思われます。
 我が国には今まで、外国のような「LRT」はなかったのでほとんどの人には「未知の存在」であるわけです。「未知の存在」に対する住民の無理解ぶり・不安というものは、いつの世も同じなのでしょうか。
 一般住民の方はそれで仕方ないにしても、行政・議員・学者など「人の先に立つ人」が「自動車と共存できないから市民の同意が得られない」とか「法規があるからLRTができない」などと口をそろえているとなると、話は別です。
 「人の先に立つ人」のそれら主張は、上の「当たり前のこと」を理解なさっていない他に大きな問題があります。それは・・・
周囲の「無理解」に迎合したままでいる
 ことです。これら「人の先に立つ人」は本来、いろいろな現象・事象を自分の目で見て、調べて、考えて、それらの行為によって導き出された結果を住民に公表・提案し住民からの意見を仰ぎ、議論して「より正しい」事の啓蒙に努める、ということを「先に立って」(「上に立って」ではなくって)行わなければなりません。
 ところが、それらの主張をされる「人の先に立つ人」は、LRTというものをどれだけ調査した上で「LRTはムリ」と発言されているのでしょうか? 具体的データも出さないままでむげに「LRTはクルマのジャマ」と発言するのは
「まだ」正しいことを知らぬ住民と一緒になって『蒸気機関車で桑園が全滅する』『電線から伝染病が移る』と声をそろえているに等しい
 と言えるでしょう。本来は、住民に先立って現状を把握して状況を改善する方向に啓蒙するのが「人の先に立つ人」の務めと言えるのですが、これでは「本末転倒」と言わざるを得ません。
 「人の先に立つ人」は、そんなこっけいな行動と同レベルのことをしていないかどうか、ぜひ再確認していただきたいと思います。「人の先に立つ人」は、やはり「人(住民)の先に立た」なければ、存在意義がないのです。




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